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古墳時代

忍岡古墳石室写真

 今から1750年ほど前になると、有力者(豪族)の巨大な墓(古墳)が造られるようになりました。これが古墳で、四條畷でも古墳時代前期(約1700年前)のものとして忍岡古墳(しのぶがおかこふん)が造られました。この古墳は現在でも竪穴式石室が見学できます。この古墳の築造を支えた人々は、現在第二京阪道路が通じている一帯に広がる讃良郡条里遺跡に住んでいました。

馬のまつりの様子イラスト

 古墳時代の中期(約1600年前)になると、朝鮮半島との交流の中で様々な新しい技術が伝わりました。当時大阪平野全体に広がっていた河内湖のほとりに位置していた四條畷は、船を使った交通の要衝であったため、そのような技術が全国でもいち早く伝えられました。その技術の中でも四條畷では馬飼いが古墳時代中期から後期(約1600~1400年前)にかけて盛んに行われました。馬飼いは四條畷の西部地域ほぼ全域で行われており、河内湖から飯盛山系へと続く標高差のある地形の中で、最も低い土地に馬を陸揚げする港とそれに伴う集落(ムラ)が営まれました。集落および祭祀(おまつり)域はやや標高の高くなった平坦地に営まれ、山裾の高所部に墓地として古墳群が造られました。これらの遺跡では韓式土器や韓式系土器といわれる朝鮮半島系の土器が多く出土し、この馬飼い技術が朝鮮半島との交流でもたらされたことをよく示しています。

 JR忍ケ丘駅の周辺では、この時期の集落跡が見つかっています。ここでは集落内の大溝から、古墳時代中期の馬形埴輪子馬形埴輪人物埴輪家形埴輪などの埴輪が多く見つかっています。このように大量の埴輪が古墳ではなく集落から見つかるのは全国的に見ても珍しいことです。また家形埴輪のすぐ近くからは、国内でも最古級の木製下駄が出土しています。

奈良井遺跡出土馬頭骨写真

 現在市民総合センターがある奈良井遺跡(ならいいせき)や、市立学校給食センターがある鎌田遺跡(かまだいせき)には、この時期の祭祀域(おまつりを行う場所)がありました。奈良井遺跡では周りを溝で取り囲まれた、一辺がおよそ40メートルある、まつり場が見つかっています。まつり場の周りの溝では、7頭以上の馬の骨が見つかっており、古墳時代中期のまつりで捧げられた馬と考えています。また、まつり場の中央に溝が通っており、それがまつり場の周りの溝と合流する地点では土で作られた馬形(うまがた)や人形(ひとがた)が見つかっており、古墳時代後期に、生きた馬に代わってまつりで捧げられたものとみられます。

 現在なわて水みらいセンターがある蔀屋北遺跡(しとみやきたいせき)では、馬飼いを行っていた人々の集落跡が見つかり、その中で馬1頭を埋葬した墓が見つかりました。このような例は非常に珍しく、当時の人々が馬を大切に扱っていたことが推測できます。現在、現地には出土した馬骨格のレプリカを設置しており見学していただけます。