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今から2千5百年ほど前に大陸から稲作の技術が伝わりました。四條畷では、讃良郡条里遺跡内の、現在第二京阪道路が通じている場所での発掘調査で、近畿地方で最も古い弥生土器が見つかっています。当時大阪平野全体に広がっていた河内潟のほとりに位置していた四條畷は、船を使った交通の要衝にあたっていたため、近畿地方で最初に稲作の技術が伝わりました。
雁屋南町・雁屋北町・江瀬美町・美田町にある雁屋遺跡は、弥生時代(約2500~1750年前)のはじめから終わりまで続く、北河内地域の中心となるムラ(拠点的集落)でした。雁屋遺跡では、北部九州系の大型壺が出土しており、稲作の技術が九州北部からもたらされたことを示しています。また、現在介護老人保健施設になっている場所では、およそ2100年前の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という、周りに方形の溝を掘ってその土を中央に積み上げた形をした集団墓地が見つかり、当時の棺や葬られた人骨がそのままの状態で見つかりました。この墓の周りの溝からは、葬儀に使われたとみられる水銀朱が塗られた土器や木製四脚容器が出土しています。また、大阪府四條畷保健所の敷地内で見つかった別の墓の周りの溝からは、亡くなった人を墓まで運ぶためのタンカと鳥形木製品が見つかっています。
国道163号沿いの城遺跡ではヒスイでつくられた獣形勾玉が出土しています。ヒスイは新潟県姫川流域でしかとれないもので、当時の人々は北陸地方とも交流を行っていたのでしょう。雁屋遺跡でも出雲地域や丹後地域、播磨地域の土器など他地域の土器が出土していて、弥生時代の人々が広範な交流を行っていたことがわかります。