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710年に、都が奈良の平城京に移されました。四條畷では奈良時代にも人々が活発に活動していました。市内北西部の讃良郡条里遺跡では、第二京阪道路の建設に伴う発掘調査で、奈良時代になって導入された土地を東西南北に方形に区画する「条里制」が、早くから行われていたことが分かりました。
讃良郡条里遺跡の大型店舗建設地の調査では、飛鳥時代から奈良時代に使われた小型の海獣葡萄鏡が見つかっています。この種類の鏡は出土例の多くが当時都のあった奈良県から出土しており、特に水に関連したまつり(祭祀)を行なった遺跡で多く見つかります。この鏡は四條畷に都の進んだ制度を取り入れた有力者が、まつりに使用した可能性があります。
また、木間池北方遺跡では、河川から土馬が見つかっています。この土馬も平城京で水に関係したまつりの跡で多く見つかっており、都との関係が考えられるものです。
このように、四條畷には都と密接なつながりを持った有力者がいて、都の推進する制度を導入し、まつりを行なっていたと考えられます。