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江戸・明治時代以降

江戸時代

新田開発や綿づくりが始まる

 江戸時代には、当地でも新田開発が盛んに行われました。深野池の沼地だった北出、二丁通のあたりの開発も行われて、農業技術はさらに進歩し、河内木綿として知られた綿づくりも始まりました。また菜種づくりも盛んで、油をしぼるための水車が権現川や清滝川にならんでいました。現在でも本市の貴重な水源として活用している室池も江戸時代に造られたものです。
 暮らしにもゆとりが出てきた村人は西国三十三ヶ寺巡礼に出かけるようになり、巡礼を終えた記念に石碑を建てたりしていますが、年貢を納められない貧しい農民もしだいに増えていき、資料によると上郷村の場合、73軒のうち42軒がそういう農民だったようです。

水車小屋のイラスト
権現川に水車小屋が立ち並ぶ様子

明治時代以降

 この地が大阪府の管轄下に入ったのが明治14年、そして明治28年に、JR学研都市線(当時、私鉄浪速鉄道、のち関西鉄道)が片町、四條畷駅間に開通して大阪と直結するようになると、旧制府立四條畷中学(現府立四條畷高校)が設立され、北河内の教育の中心となります。
 昭和に入ると30年代後半から人口増加の兆しが見え始め、JR学研都市線の複線化とともに急激な都市化が進み、昭和45年に府内30番目の市として四條畷市が誕生しました。
 大都市近郊のまちとしてその後めざましい発展を遂げてまいりましたが、本市が持つ有史以来の歴史を貴重な遺産として、その上にさらに輝かしい歴史を織り紡いでいきたいものです。