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飯盛城跡(いいもりじょうあと)は、飯盛山の山頂に四條畷市と大東市にまたがって存在する中世の山城跡です。その規模は南北約700メートル・東西約400メートルを測り、西日本有数のものです。城内には、多くの曲輪(くるわ)や堀切(ほりきり)・土橋(どばし)といった場所が良好な状態で残っています。平成29年4月6日に、公益財団法人日本城郭協会により「続日本100名城」のひとつに選定され、令和3年10月11日に国の史跡に指定されました。
この山城は石垣が多くの曲輪で用いられていることが特徴です。これらの石垣は石材をほぼ垂直に積み上げており、なかには数段にわたって築いているものもあります。石垣を多用した城としては織田信長が築いた安土城に先駆ける貴重なものです。飯盛城はもっとも初期に石垣を使い始めた城で、後の時代の城のように石垣の上に直接建物が乗るのではなく、石垣は城を作るために盛った土の押さえであった可能性があり、城の威容(いよう)を示すためのものだったのではないかと考えられています。
飯盛城は、戦国時代に三好長慶(みよしながよし)が居城としたことで知られ、長慶は永禄3年(1560年)11月に芥川山城(あくたがわやまじょう:高槻市)から拠点をこの城に移しました。彼はこの城を拠点に五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)と四国の一帯を統治し、室町幕府の政治を動かしました。彼が永禄7年(1564年)に城中において42歳で没したことは3年間にわたり秘められ、その遺体は御体塚郭(ごたいづかくるわ)に仮埋葬されたといわれています。
長慶が権力を担っていたのはわずか4年あまりですが、この城は政権が所在する『首都』といえるような場所でした。近年織田信長に先駆ける天下人として評価されています。
また彼は、城中で連歌(れんが)の会を開催するなど文化人でもありました。そして長慶が城下でのキリスト教布教を許可し、73名の家臣が城中で洗礼を受けたことは、『河内キリシタン』が繁栄する契機となりました。
本市と大東市は、この全国的にも貴重な歴史遺産である飯盛城跡をより良好な状態で後世に受け継いでいくために保存し、またその後に整備し活用することにより全国に城の情報を発信して多くの人に訪れていただくため、事業を進めています。
飯盛城跡の赤色立体地図画像
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