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34. 飯盛城跡 その2

飯盛山城跡遠景写真

本市と大東市にまたがって南北に連なる標高約314メートルの飯盛山山頂には、戦国時代末期に三好長慶(みよしながよし)が大改修した山城跡が所在しています。その規模は南北約650メートル・東西約400メートルを測り、近畿地方では最大級のものです。城内には、多くの曲輪(くるわ)や堀切(ほりきり)・土橋(どばし)といった場所が良好な状態で残っています。この山城の第一の特徴は、石垣が多くの曲輪で用いられていることです。これらの石垣は自然石をほぼ垂直に積み上げており、なかには数段にわたって築いているものもあります。この石垣を多用した城は、織田信長が築いた安土城に先駆けるものです。

飯盛山城跡の石垣写真

三好長慶は、永禄3年(1560年)に芥川山城(あくたがわやまじょう:高槻市)から拠点をここに移し、近畿一円と四国の一部を統治しました。彼が、永禄7年(1564年)に城中において42歳で没したことは3年間にわたり秘められ、その遺体は御体塚郭(ごたいづかくるわ)に仮埋葬されたといわれています。

長慶が権力を担っていたのはわずか4年あまりですが、この城は政権が所在する『首都』といえるような場所でした。また彼は、城中で連歌(れんが)の会を開催するなど文化人でもありました。

そして長慶が城下でのキリスト教布教を許可し、73名の家臣が城中で洗礼を受けたことは、『河内キリシタン』が繁栄する契機となりました。

本市では、平成27年度からこの城跡を国指定史跡の指定に向けて大東市とともに取り組みを進める予定です。

歴史民俗資料館では、この貴重な歴史遺産を広く皆様に知っていただくための一環として、平成27年3月3日(火曜日)から3月31日(火曜日)まで『飯盛山城跡パネル展示会』を開催しています。

この機会に、約450年前の城跡の様子をご覧下さい!!

広報四條畷 平成27年3月号掲載

歴史民俗資料館