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52. 飯盛城跡 その7

飯盛(いいもり)城跡(じょうあと)は、四條畷市と大東市にまたがる飯盛山の山頂にあり、戦国時代に三好(みよし)長慶(ながよし)が居城(きょじょう)としたことで知られます。この城は石垣を使い始めた初期の城で、多くの石垣が残されています。

長慶は、この城を拠点に室町幕府の政治を動かし、近年、織田信長に先駆けての天下人として評価されています。

1564年(永禄7年)、長慶は42歳で没しました。その死は3年の間秘められ、城内の御体塚(ごたいづか)曲(くる)輪(わ)に仮埋葬されたと伝えられます。

平成30年2月から3月にかけて、御体塚曲輪付近の石垣を調査し、現在の地面より下に石垣の下部が埋まっていることがわかりました。また、平成28年度の調査で測量を行った石垣と図面を合成した結果、ほぼ直角に近い角度で配置されており、土砂に埋もれていますが「入角(いりずみ)」が存在する可能性があることがわかりました。城に使われたもっとも初期の石垣の技術を知るうえで重要であり、今後も検討を重ねていく予定です。

これほどの石垣で付近を取り巻く御体塚曲輪は、何らかの特殊な使われ方をした曲輪だった可能性があります。

歴史民俗資料館では、「飯盛城跡調査速報展2018」を開催しており、7月10日(火曜日)から9月9日(日曜日)まで後期の展示を行っています。展示では、今回紹介した石垣付近の御体塚曲輪でみつかった銅銭や建物の瓦などをみることができます。ぜひ皆さまも歴史民俗資料館で、御体塚曲輪の性格について考えてみてください。

広報四條畷LIFE 平成30年7月号掲載

飯盛城跡で調査した石垣の写真
図1 調査した石垣

飯盛城石垣の配置を示す写真
図2 石垣の配置