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インターンブログ#039「プロフェッショナルなわての流儀・第六回~大東金属株式会社社長 古賀敬司さん~」(山口真吾)

みなさんこんにちは、山口です。

プロフェッショナルなわての流儀も過去5回さまざまなプロフェッショナルをご紹介してきましたが、今回のプロフェッショナルは、「インフラの発明王」「歴史の生き証人」と形容させていただきたい、すごい方です!

その方とは、約40年にわたり高速道路の防音壁や橋梁支承(きょうりょうししょう)*の改修・工法開発などを手掛けてこられた、大東金属株式会社社長の古賀敬司さんです。

*高速道路の橋げたと橋脚の間に設置する、衝撃の吸収や耐震を目的とした部材のこと。

古賀社長は1935年(昭和10年)博多に生まれ、第二次世界大戦を幼少期に経験。鉄鋼会社に就職してからは東海道新幹線開通工事に携わるなど、アイデアマンとして早くから頭角を現し、1980年(昭和55年)には45歳で大東金属を創業され、御年83歳の今もなお、現役社長として活躍されています。

そんな社長が手掛けた代表的な事業がこちら。

1959年(昭和34年) 西宮球場(プロ野球当時の阪急ブレーブス本拠地)のラッキーゾーンフェンス建設を主導。
1962年(昭和37年) 東海道新幹線開通に際し、立入防止柵を建設。古賀社長が提案した「溶融亜鉛メッキ」*仕様が全区間採用された。
1967年(昭和42年) 北陸自動車道の横風防風柵を約30kmにわたり建設。
1968年(昭和43年) 東名高速道路の転落防止網建設
1972年(昭和47年)

日本初の吸音板を開発。山陽新幹線神戸六甲トンネル東坑口の遮音壁に採用される(この開発のおかげで、中国自動車道建設における地元との交渉が格段に進んだ。)

1975年(昭和50年)

ゼロ戦の格納庫を参考に、中国自動車道の宝塚工区に「青葉台シェルター」を建設。

ゼロ戦の格納庫を参考に、中国自動車道の宝塚工区に「青葉台シェルター」を建設。の画像

1980年(昭和55年) 大東金属株式会社創業。
1995年(平成7年) 西名阪自動車道柏原トンネル内の視環境改善に取り組み、渋滞を約2/3に減少させたことを評価され、日本道路公団総裁賞を受賞。
2000年(平成12年) 北陸自動車道の防風柵改良案が採用され、日本道路公団アイデアコンテストにおいて最優秀賞受賞。
2010年(平成22年)

この年開通する第二京阪道路に「ソーラーパネル一体型背面分離式吸音板」が採用される。防音壁を1枚1枚のパネルに分解して改修できる仕様にすることで、従来の改修コストを大幅に改善した。

2010年(平成22年)の画像

このように、名だたる交通系インフラの「縁の下の力持ち」としてご活躍されてきた古賀社長。

これまでインタビューさせていただいた方々とはまた違った興奮を覚えました。

それではどうぞ。

*送電用の鉄塔などにも採用される鋼材の防錆(ぼうせい)処理の一種。「ペンキ塗装では5、6年で剥げて補修が必要になるが、溶融亜鉛メッキによって60年もつ。」(古賀社長談)

雑誌の記事を読み、逆算して下積み時代を過ごした。

山口:さっそくですが、大東金属を創業されたきっかけはなんですか?

古賀社長:リーダーズダイジェストという雑誌を昔読んだことがあって、ある記事に「男性は20歳になったからといって一人前とは言えない。家庭を持ち、子どもができて一番お金がかかる30歳くらいからさらに15年、45歳までサラリーマンをやれ。そして、45歳から独立しろ」とあった。その記事に納得してその通りにしようと思い、45歳まで下積みをして45歳の誕生日に独立したね。

山口:おお、印象に残った記事を忠実に実現されたんですね!とはいえ、そんなに思い切って独立できるもんなんですか?

古賀社長:当時、高速道路の支承の老朽化問題がアメリカで話題になっていたんだけど、日本でも高速道路ができてしばらく経った時期で、保守・修理専門の会社が必要になるだろうし、そこで今までの経験を活かせると思った。下積み時代に積み上げた実績があったから、資本金がなくてもお世話になった人が仕事を紹介してくれて、比較的楽に注文はとってこれたよ。

雑誌の記事を読み、逆算して下積み時代を過ごした。の画像

山口:下積み時代アイデアマンと呼ばれて実績を重ねられたということですが、なぜそんなにアイデアが出てくるのですか?

古賀社長:僕の時代は戦争中で、当時の僕の夢は軍人になることだった。だから必然的に兵器の勉強をしていて、工学的な知識がアイデアに活かされていると思うね。

小さいけど、社員にのびのび働いてもらいたい。

山口:大東金属を創業されてからもうすぐ40年たちますが、なぜ古賀社長は創業の地として四條畷を選ばれたのですか。

古賀社長:創業当時の四條畷はどちらかというと工業地帯で、金網の生産が盛んだったし、地下水をくみ上げた綺麗な水道水があったから選んだ。北新地で終電を逃しても割とすぐ帰れる利便性もあったしね。

山口:昔の四條畷は工業地帯だったんですか!意外です!社長として工夫していらっしゃることはなんでしょうか?

古賀社長:社員にはのびのびと働いてもらいたいと思ってるね。昔、メルセデスベンツの本社を見学しに行ったことがあったんだけど、タイムカードの管理などなく、平日の昼間から社員がテニスをしているのには驚いた。目標さえ達成すれば自由にしてよくて、仕事したくなったらとことんやっている、という風土で、そんなのびのびとした会社が理想だね。オフィスのデスクには円形のデスクを置いて、フロアの柱もほとんどなくしたんだけど、当時としては変わっていたと思う。それ以外にも、ファックスを市役所より早く導入したり、CAD*をいち早く使いだしたり、新しいものを先手先手で導入して結構よかったね。

*CAD=Computer Aided Design:設計図を書いたり、製図を行ったりするソフトウェア・システム。

小さいけど、社員にのびのび働いてもらいたい。の画像1

山口:すごく先進的な思考で、さすがアイデアマンだなと思います!最後に四條畷にこうなって欲しいと思うことはありますか?

古賀社長:せっかく都心に近い地域だから、田園調布のようにもっと景観がゆとりあるものになって、目からくる安心感を与えられたらいいと思うな!

小さいけど、社員にのびのび働いてもらいたい。の画像2

そうそうたる実績をお持ちであるにも関わらず少しも偉ぶることなく、ところどころで冗談をおっしゃるお茶目なところも素敵な古賀社長でした。

最後に、1999年にyahoo!に掲載された記事をご紹介します。

「なにわの発明王は個人的な利益よりも公共の利益を優先してきた。これまでの発明で特許をとっていれば大富豪になっていたのでは、と周囲の声があるが気にしない。」

まさに日本を支える優れた経営者だと感じました。

古賀社長にはお体に気を付けて、いつまでもお元気でいらしていただきたいと思います!

次回の「プロフェッショナルなわての流儀」もお楽しみに!

大東金属株式会社のホームページはこちら<外部リンク>

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