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こんにちは、最近夏の日焼けが徐々になくなり、顔色が悪いと言われるようになってきた、山口真吾です。
11月に入り冬も迫る中、体調を崩している方も多いと思います。朝晩冷え込むようになってきましたので、くれぐれも体調管理には注意してくださいね。
さて、そんな秋の快晴の中、この度、僕は「四條畷市立歴史民俗資料館」にお邪魔してきました!なぜかと言うと今、歴史民俗資料館で期間限定の特別展、「鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)ー持統天皇と北河内の飛鳥・奈良時代ー」を、12月10日まで開催しているからなのです。これからその中身について、皆さんにお教えします。
場所については市のホームページでご確認ください。
持統天皇は飛鳥時代の天皇で、夫である天武天皇の政策を引き継ぎ、藤原京を完成させた天皇です。父親は「645(むしご)ろしの大化の改新」で有名な中大兄皇子(天智天皇)。
そして、
春すぎて夏来(き)にけらし白妙(しろたへ)の
衣(ころも)ほすてふ天(あま)の香具山(かぐやま)
という歌が百人一首に収められていることでも有名な天皇です。
そんな持統天皇の名前は「鸕野讃良皇女」といいます。このうち「讃(さらら)」は、四條畷市全域と寝屋川市・大東市の一部を含む古代「讃良郡」の地名から取られたものだそうです。
なるほど、だから四條畷市が持統天皇を取り上げているんですね!
実は、小学生のときに図書館から歴史マンガを大量に借りてきて読みふけっていたり、人生で初めて観たドラマが大河ドラマだったりするほど、歴史が好きな僕。
今回はそんな僕が、一部ではありますが特別展の展示について振り返りたいと思います!
ギャラリーはまず、持統天皇の前史、すなわち古墳時代(約1400年〜1600年前)の四條畷の展示から始まります。
ここで僕の目を引いたのは、四條畷が古墳時代は「馬飼いの里」だったということ。
馬といえば、昔の貴重な移動手段。どれくらいすごい「馬飼いの里」だったのかーー。
古墳時代は、朝鮮半島から日本に馬がもたらされた時代に当たりますが、その時代、四條畷の地形は東に山、西に湖、南北を河川で区切られている、馬が逃げることができない天然の牧場のような地形だったそうです。
そんな四條畷市の奈良井遺跡からは、『神に奉げた馬』という、切り落とされた馬の頭部の骨が出土しています。この遺跡は、古墳時代の中ごろから終わりにかけて馬に関わる祭りを行っていた場所だそうです。このことから、貴重な交通手段である馬は、神への捧げものとしても非常に重要であったと思われます。
また、古墳時代は近畿地方に有力な豪族がいたと考えられていることからしても、四條畷周辺は国家的に重要な馬の産地であり、大王や祭祀に献上するための「高級車」ならぬ「高級馬」が飼われていた可能性が高いのです。
もしかしたら四條畷産の馬を乗りこなすことが、豪族にとってのステータスだったのかも??
ギャラリーの中盤には持統天皇と天武天皇の墓の一部とされる石材が展示されています。
遠くからみると、ただの石かもしれませんが、よく見ると上面はツルツルで明らかに人の手が加わっています。
この石、当てられている光の加減で黄土色に見えますが、実は白色の凝灰岩で、墓が築造された時は、真っ白だったそうです。
さらに、『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』という資料によると、墳丘が八角形であるという記述があり、昭和36年に宮内庁が調査を行いました。その結果、内角が135度の隅部が見つかり、墓は5段に築造されたと想定されています。
つまり、持統天皇と天武天皇の墓は、白い八角形の墳丘で、日が当たると白く光っていたと考えられます。
田畑の中にある真っ白な墓は、さぞ神々しかったことでしょう!
また、航空写真を見ると、藤原京の大極殿から真南の方向に墓が位置していたり、持統天皇の骨壷が銀製であったり、当時の天皇の権威がいかに絶大であったかを思い知りました。
他にも持統天皇が生きた飛鳥時代の展示品がたくさん展示されており、思った以上に僕の歴史の知的好奇心は満たされました。中でも疫病神を流す土馬や絵馬などの展示品からは、歴史の教科書に載るような大きなイベントの背後にある、普通の人々の日常も窺い知ることができ、勉強になりました。
文化の秋です。歴史がお好きな方は、ぜひ一度四條畷の昔の姿を見に行ってみてください。
第32回特別展鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)‐持統天皇と北河内の飛鳥・奈良時代‐
(※イベントページは公開終了しています。)
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