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郷土史カルタ「田原の里」

生徒が作った郷土史カルタ

四條畷郷土史カルタ「田原」編を作製しました。カルタ遊びを通して、子どもからおとなまで、田原の名所・旧跡や歴史、伝説、風俗、習慣などを知り、郷土を愛する心を育んでいただければ幸いと思っております。

田原カルタ表紙

あまのがわ かわちやまとの くにざかい

 生駒山系東斜面の滴水を集め、田原の里で水系を整える天野川は、磐船神社の秘境をつくり、交野、枚方を経て淀川に注ぐ。この水系は文明発生地域として重視され、国境となっていた。大和を東田原、河内は西田原。西田原は水系の位置により、上田原・下田原に二分される。

いまむかし なんゆうきこうの とうげんきょう

 貝原益軒が、元禄二年六十歳のとき、天野川沿いに交野、磐船より田原に旅して、田原の里を紀行文『南遊紀行』に“恰も陶淵明が桃花源記にかけるが如し”と書いている。田原は、理想郷として先人たちの楽園であった。このすばらしいところが開発事業によって、ニュータウンができた。かつての理想郷を今によみがえらせることが住んでいる者の務めであると思う。その願いを込めて、この句を田原のシンボルである戎公園の石塔に捧げる。

うめばかあり たちばかありの りょうぼせい

 上田原の正傅寺の境内に、300基以上の石塔がある。ウメバカに対するマイリバカで、寺院で供養するためにたっている。現在のような墓標を建てるようになったのは江戸期らしく、それまでは、死体を埋めて土まんじゅうを作り、小さな石を目じるしに置いておく程度。葬礼が済むとウメバカにはお参りしないという風習があった。墓は、ウメバカ、マイリバカがあって別々であった。その両方をそなえている両墓制が照涌墓地。これはめずらしいことである。

えびすがわ こうえんのみどりは まちのいろ

 戎川は、旧清滝街道沿いに流れ、天野川に注ぎ、「田原の里」は標高150mの盆地です。清瀧峠を通る逢坂越えで河内と大和を結ぶ清瀧街道に臨み、磐船街道で交野、枚方に通じています。神話伝説に彩られた生駒山や、南北朝の合戦の舞台のひとつ、四條畷にも近く縄文、弥生期から鎌倉期の出土遺跡や朝廷に氷を貢納した古代の『讃良氷室』ゆかりの室池、三好長慶に属した土豪田原氏の居城跡もあり、関西文化学術都市として、「緑と石と水」の創造的な街である。

おくふかく きゅうりゅうのさぶたんがわに たきでらそう

 寒谷池から深い谷間をぬけて流れる川を村人は、「サブタン」川といっている。国道163号線と清滝街道の分岐点・下田原西交差点のところを滝寺という。滝らしきものはない。古老によると寺院があったということであるが、現在はない。かつては寒谷川に沿って道があり、ゴルフ場の場所にあった旧田原中(昭和22年1947開校)に通学していたが、あまりの寒さに1年もたたないうちに旧田原小跡の場所に移転した。

かいざんの こまつでらえんぎに たわらごう

 当初、荒山寺と称した。元明天皇の和銅5年(712)、田原郷の住人宇紀八の子若石丸、宗次郎の子熊王丸、中四郎の子松若丸の3人がこの山に遊び、方5尺の草堂をつくったのが開山の始まりである。延長3年(925)、秦の姉子なる人が、亡夫の小松景光供養のために、七間四面の堂一宇を建てた。そのため荒山寺改め、小松寺と称するにいたる。出土の瓦は、平安から鎌倉期のものが主であるところから、小松寺は鎌倉期までは盛大をきわめたものとおもわれている。戦国期には、山城化した小松寺を小松城とよんだそうだ。/td>

きゅうたわらちゅう かたみのこうどう じきょうかん

 昭和22年(1947)4月、新学制発足により開校した田原村立田原中学校は、昭和41年(1966)7月に四條畷中学校に統合され、田原分校となり、29日、田原分教場と改名された。昭和42年3月終業式と同時に閉校となった。
 閉校にともない旧田原中学校の講堂内の図書室を記念館として残し、自彊館(じきょうかん)と名付けた。その後JA大阪東部の倉庫になり、花卉センターになったが、平成13年に壊されてしまった。その面影を残すため、「田原育英の地」という石碑が建てられた。

くすのきの こもれびあびる しょうなんこう

 小楠公墓地の楠の木は樹齢587年、幹の廻り12メートル以上、巨龍昇天のうねりに似た神木で側に建った石碑7メートル50センチ。境域を拡張、三年間を要して明治11年1月5日に建碑式を挙行。その真東1000メートルの飯盛山麓に四條畷神社が鎮座したのは明治23年のことである。楠の木は、府指定天然記念物。墓地は、府指定史跡。

けんしゅうの こまつでらにもねむる こうはいごりんとう

 楠木正行の家臣和田賢秀(源秀)の墓である。南野の「塚脇」の墓石は、高さ1m20cm幅40cmほどの位牌型で、江戸末期の天保2年(1831)の建立となっている。正面に「和田源秀戦死墓」裏面「むかし問へはすすき尾花のあらし吹く天保二年九月浪華永田友之誌」とある。ここの字名は薬師といわれ、村の人は歯神さんとして信仰していた。下田原(ゴルフ場の中)の墓石は、舟型光背の一石に五輪塔を陽刻したもので、表に「和田賢秀之墓」とかすかに読み取れる。高さ1m幅35cm。賢秀の菩提を弔うために、小松寺にも建立したのだろう。

ごうぐらに ねんぐのこめを おさめている

 江戸期には、各村落に年貢の米を収納する倉庫がありました。その郷蔵は上田原にも、下田原にもありました。その面影を残すのが下田原の集会所の横にある倉庫です。(ここも平成13年に壊されました。)以前の集会所は、昭和初年に建てられました。それまでは体育場とよばれる広場で、相撲場や鉄棒などもあったようです。上田原村の郷蔵は、森山バス停付近にあったそうです。年責米納入期ともなれば不寝番がつきました。藁葺屋根の多い民家の中でひときわ目立つ瓦茸の倉庫です。

こしいたじぞう じゅずをまわし ねんぶつとなえる

 正伝寺の境内(けいだい)にある、下半身の地蔵さんです。「為身体堅固腰痛平癒祈願之塔」という札がかかっています。「数珠くり」といって、ひろげると周囲10メートルほどある数珠をにぎり、20人ばかりが輪をつくり、「般若心経」にあわせて口々に念仏をとなえながら百回ぐらいまわします。

さえわたる ぐりーんほーるの かねのおと

 開発にともない行政のサービスの拠点として平成5年4月に開館し、新旧の住人の交流の場として、コミュニティ活動および生活文化・教養の向上のため利用されています。塔にカリヨンが4つ設置され、1日4回鐘が鳴っています。時間によってメロディがちがっています。午前7時(スウェーデン民謡・朝露の山への一節を編曲)正午(ロンドンのウエストミンスクーのチャイム)午後5時〈オリジナル・メロデイ)午後10時(ウエルディのオペラ・ナプツゴの小節を編曲)となっています。「グリーンホール田原」の名称は、市民から募り、54人129点が集まり、その中から選ばれました。

しょかんにのこる たわらきりしたん なぞのこる

 田原地区がキリシタンとして登場するのは、1576年8月のフロイスの書簡(手紙)に「コカ(甲可→四條畷のこと)、三箇、若江、タワラ(河内田原)および堺の市のキリシタンの大多数の」の一節のみに出ている。くわしいことはまったくわからないようだ。ザヴィエルの来航に続いて、数多くの宣教師がきて、各地に布教。四條畷では、砂、岡山に3500人(1582年には国内信徒数15万)の信徒があり、教会、十字架が建って盛況だったことなど領主・結城(ゆうき)氏の名とともに耶蘇(やそ)会士通信文の中に伝えられている。

すむひとの しんこうあつい たいしどう

 天満宮の入口に小さなお堂がある。そこにお大師さんがまつられている。大師とは、国王の師となりえる人で朝廷からおくられる称号。大師といえば、弘法大師のことになってしまっている。それほど弘法大師の信仰が厚い。

せんごくの たわらつしまのかみ ほんまるやかたをきずく

 田原対馬守は、田原城の城主として田原をおさめていた土豪と言われていますが、詳しいことはわかりません。文献としては、江戸末期の上田原村明細帳に「永禄の頃、当地守護田原対馬守御城跡と申伝候」とあるぐらいで歴史的な人物像として、はっきり現われてきません。本丸跡にたてば田原が一望でき、戦場の拠点としてはたいせつなところであったことが今でもわかります。

そそりたつ たわらじょう もぐちやのいしかくしいど

 永禄年間(1558年から1569年)、田原対馬守は上田原字八ノ坪に拠点をおく武将だったという。天野川上流に聳えたつ30メートルほどの田原城は、土居の内とも呼ばれ、土豪武士の居館の名残をとどめる。他に、城の下、門口、水の谷、矢の石などの城郭用語を、古老は語り伝える。

たわらのさと やまふところにしずかなり

 元禄2年(1689年)2月11日、当地を旅行した貝原益軒はいう。「おくの谷中七・八町東に行けば、谷の内すこぶる広し。天の川流る。其の里を田原と云う。恰も陶淵明が桃花源記に書けるが如しと。」当市域18.9平方kmの約半分を占めて人口は約9300人。

ちたかきさと しょうでんじ へいあんこうきのにょらいさん

 正傳寺は佛法山と号して融通念仏宗で、本尊は阿弥陀如来。田原村民の治病医学の本尊として親しく信仰を集めている薬師さんは、本堂の東側に安置されている。高さ約2メートル、光背2メートル50。もと森福寺と号する上田原所在の真言宗寺院であったことが天保15年(1844年)明細帳に見える。現在廃寺で明治初年ここに遷座した。
 薬師さんは、市指定有形文化財。

ついぜんくよう せいぜんにいのる にきのじゅうさんぶつ

 人間が死んで、あの世へ往生するまでに33年かかるそうです。そのために亡くなった人の供養をします。初七日、ニ七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(49日)、百ヵ日、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、三十三年忌の13回の追善法要です。十三仏は、死後の法要を、生前、自分でしておこうという逆修(ぎゃくしゅ・あらかじめ)の意味するものが多いです。一石に十三の仏さんが彫られている十三仏は、四條畷に7基もあります。自治体では日本一多いです。その2基が田原にあります。
 照湧墓地一石十三仏板碑

ついぜんくよう せいぜんにいのる にきのじゅうさんぶつ

 向かって下段右から左へ、初七日の不動明王、ニ七日の釈迦如来、三七日の文殊菩薩、そして下二段左から右へ、四七日の普賢菩薩、五七日の地蔵菩薩、六七日の弥勒菩薩、そして下三段右から左へ、七七日(49日)の薬師如来、、百ヵ日の観音菩薩、、一周忌の勢至菩薩、そして下四段左から右へ、三年忌の阿弥陀如来、七年忌の阿しゅく如来、十三年忌の大日如来、上段が三十三年忌の虚空菩薩の13回の追善法要。十三仏は、死後の法要を、生前、自分でしておこうという逆修の意味するものが多い。
 上田原の住吉神社十三仏板碑

てをとって こだからねがう こやすかんのん

 子安観音は、住吉神社の地車倉庫の前にあります。子安は安産の意味です。むかしは医療技術や設備が未発達でしたので、無事赤ちやんが産まれ、健やかに育つということはなかなか困難なことでした。観音さんのご利益をいただきたいと、手を合わす人々の思いが伝わってきます。自分ではどうしょうもできないとき神や仏に手をあわす人間の生き方がこうして生まれてきたのでしょう。

とのさまは やっつのつぼで てあしあらう

 田原城跡の南側8mのところに石組みの井戸が見つかった八の坪遺跡がありました。八坪は、八壷で水の豊富なところを意味します。古老の話では、「この天野川上流に、八つの壷を並べておき、殿様が手足を洗って登場されたから”やつぼ”というのです。」といわれています。伝説として南北朝時代の殿様屋敷があったということです。りっぱな石組みの深い井戸は、それを物語るかも知れません。

としおいてろくじめいごひに こころよせ

 六字名号(ろくじみょうごう)とは「南無阿弥陀仏」の六字をいいます。正伝寺、住吉神社の境内で、この六字の書いた石碑を見ます。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀仏に帰依(仏を信じ、そのカにすがること)する意味です。善導(唐の僧はこれを称念(南無阿弥陀仏と唱えること)すれば必ず往生(極楽浄土に)することをいい、浄土真宗では、南無は「たむ」、阿弥陀仏は「たのむ者をたすける」と解釈しています。これを唱えるのを念仏といいます。四條畷では・中野の正法寺に江戸期以前の六字名号碑(天文五年・1536)としては大阪でも一番古いものではないかといわれる立派なものがあります。

なかがいとうごえ やまとにつづく ふるづつみかいどう

 大東の寝屋川沿い(野崎まいりなど有名)から中垣内、龍間、そして田原への古道が大和に続いています。住吉神社前の道が古堤街道です。田原には、大阪から奈良に続く街道が、もうひとつ清滝峠越え大和街道(清滝街道)があります。中垣内峠越え大和街道(古堤街道)は、山間道でありましたが、明治30年代に拡張工事がなされ、大正12年に完成しまた。その完工記念碑が住吉神社内にあります。また、平成に入って、より大きく拡張されました。「右古堤街道・明治39年5月建立大阪府」「すぐ古墳街道」と彫ってある、高さ130センチの角柱碑が、いま森山の交差点近くにあります。

にしたわら けいあんにかみ・しもの りょうそんとなる

 小松寺縁起帳(久安元年1145)に、「田原西郷、田原東郷」とあるので、平安期には、天野川を境に大和田原、河内田原に分かれていたようだ。市史に、「慶安2年(1649)、大坂町奉行曽我丹波守の再検地を受けて、西田原村は600石の村高となる。2年後には上・下田原村に分村され、上田原村273石余、下田原325石余となり、それぞれ村方三役をおく独立村落となった。分村されても、両村立会住吉神社のもとに結合して、一体感を保ちつつ、泰平の江戸期へと入っていく。」とある。両村は天野川上流を上田原、下流を下田原とし、この境界を確かめるため、「ほうじさし」という伝統行事が今日まで続いているようだ。

にこやかに えみをうかべる じぞうさん

 地蔵さんの普通の形は、右手に宝珠、左手に錫杖をもち、頭は丸坊主、袈裟と衣の僧侶の姿です。地蔵は死後の世界にかかわる菩薩ですが、生前の世界には、あらゆる庶民の悩みを聞いてくださる仏さんです。これらの地蔵さんは、村ごとに、あるいは道々の辻に立ち、錫杖をつきながら各戸を訪ねて願い事を聞き入れてくださる仏さんです。数が多ければ多いほど功徳も多かろうと各所に建立しました。地蔵信仰は鎌倉期以降、庶民に密着したのが江戸期が最高潮です。

ぬれながら たびびとまもる にしかわだいきちおう

 下田原の戎川沿いにめずらしい墓型のした道しるべがあります。この道は、清滝越え大和街道(清滝街道)です。石碑に「右なら郡山道左やましろすぐ大坂」「家紋・西川大吉」台石に「油若中」(すぐ→まっすぐのこと。若中→青年組織)「弘化二歳巳七月上浣」(1845年江戸末)と彫られています。故西川大吉の衆生への善行追善供養として故人をしのぶ油若中の人たちが建立したものでしょう。

ねがいごと みみなしじぞうに てをあわす

 耳のない地蔵さんが、下田原の法元寺内入口に祀られている。高さは30センチぐらい、年代を究めることは出来ないが、室町期か江戸初期のものであろう。「耳無地蔵尊」の標識石柱が建って、「北へ一丁」と記すほどで、耳の病全快を祈る信者は、今も絶えないという。

のんびりと つきみのばんに だんごとり

 仲秋の名月には、すすき・萩・かるかやの花を花瓶にさして、その側に団子と芋といんげんなどを煮たものを供えるところから芋名月ともいう。この日だけは、若い衆が、お供えを棒の先で突きさして盗んでも許されるという「お月見どろぼう」の風習がある。突きさして盗ると「良い縁」がととのう、「福が来る」といわれている。月の光で針の穴に糸を通したら、北向きの川で眼を洗うと、一年間健康な眼で暮らせるともいわれている。
 現在、田原地区では、「お月見どろぼう」のかわりとして、お月見に子どもたちにお菓子などをプレゼントしているところがある。それをいただきに各家庭をまわっている。子どもたちの年に一度の楽しみの行事である。

はごろもばし かわによくするてんにょと むすばれる

 羽衣橋は、下田原の北側、交野の磐船神社にさしかかるところにあります。天の川に架かっている橋です。「天の川」の地名は、日本地名大辞典によると、「昔仙女あり、この川に浴せしがその羽衣を少年にかくされる。依って留りて少年と共に夫婦になり、年を経て天に帰る.故に天の川と號する。」とあります。おそらく天の川に因んで名付けられた橋で、ここに当時の人が「羽衣伝説」のロマンを創ったのでしょう。

ひのようじん しょうでんじにのこる うんりゅうすい

 正伝寺の縁側の天井に水ポンプがかかげてあります。幕末に発明された雲龍水の消火器です。「雲龍水、水立昇ること数丈、呼吸なくして水勢強く、火消第一の器なり」と宣伝され、明治未まで使用していました。江戸期の火事対処法としては、「出火これあり候は、声をたて、太鼓を打ち、村中の者馳せ集まり精を出し火を消すべし」という文書も残っています。木造建築のわが国においては、地震、雷、火事はとても恐いものでした。これらの災害は出火を伴い、すべてが消失してしまうからです。

ひから よをまもる あたごのじょうやとう

 正伝寺の境内に1基の「愛宕山」と彫られた常夜燈が見られます。昔も今も火事ほど恐いものはありません。ことに藁葺き(わらぶき)の屋根構造であった江戸時代には、延焼を防ぐには隣の家をたたきこわすしか火勢をくいとめることができませんでした。また、神仏にたよるしかありません。京都の北西にある愛宕山の防火神・愛宕神社にお参りにいきますが、遠方なのでなかなか出かけることができません。そこで、村ごとに常夜燈を祀っています。また、村の代表が愛宕さんにお参りし、みんなのお札をいただいてくるのです。こんな行事もまだ残っているところがあります。

ふとんだいこ こころあらたなり てんじんさん

 天神は本来、天候の神で農民が豊作を祈願するものであったが、菅原道真と同一視され全国いたるところに天満宮として祀られている。道真は、時の政権の敵として大宰府に流される。「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の歌をよみ、大宰府で没す。その後、京に落雷がしきりに起こり。道真の怨霊のなせるものだと恐がられ、その霊をなぐさめるため、「天満大自在天神」の名で北野天神に合祀されたそうだ。
 下田原のお祭りは、7月24日宵宮、25日が本宮。昭和26年につくられた太鼓台を平成4年に前の台座を「ふとん太鼓」につくりかえた。太鼓と鐘を鳴らしながら、みんなで山車を引いて巡行する。

へいおんに なかばんよまわり どいのうち

 中番は、上田原住吉神社から矢の石まで、古堤街道沿い山系に開けた集落。台帳には登場しない小字集落。八ノ坪とも地名として台帳には「土居の内」となっています。中番は、「辻にある番所を辻番というのに対して、辻と辻との中程のある番所の称」「木戸番ニ同ジ。町ノ中程ニ設ケタルヲ中番ト云ヒシガ、後ニハ広ク番所ヲ中番ト云ヒキ」とあり、番所を意味します。田原対馬守が八ノ坪に城を構えた時、城の前面にある小集落の一角に番所を設けました。これを機縁として、この集落を「中番」と称したと考えられるそうです。

ほうじさし たけくいでたしかめる むらさかい

 毎年1月11日に「ほうじさし」という行事がある。まず最初に竹くいをさすのが、田原中の裏山からで、上・下田原2本ずつさしていく。その場所を「ほうじ坪」という。室池まで10ヶ所行くと上田原の人は、南野、中垣内、生駒(南田原)の境界に、下田原の人は逢坂、交野(星田)、私市の境界40ヶ所に1本ずつ打ち込んでいきます。

ほうさくの かんしゃをいわう あきまつり

 初ものを神に献ずる秋祭りは、収穫前に行われます。田原は江戸期以来旧暦の9月16日を、明治22年に10月16日に改められました。住吉神社の、この祭りの前日15日が宵宮、当日が本宮で宵宮といっても一日は夜に始まって翌日の日暮れまでをさしたものであるから、宵宮は本宮の始まりとなります。だから、15日の夜が山場です。最近、田原でも住吉神社の秋祭りが、地車を出すのに人手がいるので、土、日曜日になったりしています。また、農作業をする人も少なくなり、本来の豊作の感謝と村人の繁栄の祭りとは違ってきています。神との結びつきより、人々との交流の場となってきています。

まちのなか みずのながれに いしのほり

 田原は、山ふところに抱かれた静かな山里。平成2年(1990)5月に住宅・都市整備公団が進めたニュータウン(1万人都市計画)が街開きされた。「緑と石と水」の融合した、創造的な街づくりをめざしている。街の通りや公園などに石の彫刻がいたるところにある。かつては多くの石切り場もあった。開発の工事中に土の中から転石が多く出土した。それを利用した石組が公園や通りのいたるところにある。また、水の流れも街の中に生かしている。田原の井戸水はおいしく、ふんだんに湧き出ている。生駒山東斜面のしたたり水をあつめ、水系を整える天野川の上流でもある。

みずくよう てるわきのおおいど こうぼうさん

 「昔、この地を通られた弘法大師に村の人が気持ちよくお茶をさしあげました。そのお礼に『ここを掘ればきれいな水がわく』と大師さまに教えられて、井戸を掘り、それから千年以上もたちますが、いくら日照りでも清水が湧きつづけています。『照れば照るほどよく涌く井戸』ということで、『照涌井戸』と名付けられ、このあたりを照涌と称せられて毎年8月の下旬に「水供養」が行われています。
この弘法清水の伝説は、貴人が回ってくると、新たに井戸を掘ったことに起源するらしい。すなわち弘法大師空海の高名が全国的になると、神霊の国遊と同一視されて、歴遊伝説となり、善男善女の真心に感じて錫杖をもって大地をつき、清水を湧かしたと伝説される。

むろいけの こおりたくわえ みやこゆき

 『延喜式』(920年)に「讃良郡氷室一処」とあり、室池は、江戸期まで氷室池と呼ばれていた。氷室とは、氷を貯えるところをいう。山深く夏でもひんやりとしており、冬の間に池の氷を切り出し、「室」に貯蔵する。それを夏になって取り出し、宮廷に献上した。標高約272mにある室池は、砂溜池、中池、古池、新池からなっている。面積は、17ヘクタールある。
 四條畷市歌の2番に「まんまんと水をたたえる室池の生命のしずく糧として未来のちからたくわえる」とうたったのは、四條畷の上水源の大部分を賄っていたからである。平成10年4月からは淀川の水に切り換えられ、室池は使わなくなった。

めをさます じょうもんやよいの たわらいせき

 旧石器時代の細石器(尖頭器)や縄文早期の押型文土器、貝殻条痕文土器の出土。
 田原の西部の山系から縄文、弥生、古墳期から鎌倉、室町期にいたる土器、石器、羽釜などが出土している。出土品は、市立歴史民俗資料館等に陳列している。戎川と合流するところに角堂橋がる。このあたりから鎌倉から室町ごろの羽釜が出土している。

ものがたる いわふねじんじゃの たけるのみね

 饒速日命が天照大神の命をうけて、天の磐船に乗って河内哮が峰に天降ったという話がある。近くに磐船神社があって、巨大な船型の岩がある。饒速日命は、生駒東方鳥見の地方に勢力をのばしていた。その子孫が物部氏で、田原一帯から磐船の渓谷、天野川をくだって交野・枚方地方へ稲作文化をひろげていった。当時の巨岩崇拝の思想から祖先が物部氏の乗ってきた船だと信じてきた。そして、ここが一族の聖地と崇められるようになった。したがって、その後磐船神社は農耕文化によって開けていく天野川周辺の村々の総社であり、村々の氏神の祭神は、いずれも饒速日命である。

やまなかに こけむすごりんとう げっせんじぼち

 旧月泉寺墓地は、上田原山中にあって、五輪塔や卵塔が建ち並ぶ。3基の五輪塔がのる土台のすべては、五輪塔地輪の部で築き上げたもの。五輪塔林立の往時が偲ばれる。戦国期、当地を支配した田原対馬守一族に縁ある人たちを祀ったものと云う。墓地は新しい道路を横切ったところに移設。墓地発掘調査のとき、千光寺の瓦や青磁の香炉などが出土。またキリシタン墓碑も見つかった。
 青磁の香炉は府指定有形文化財。

ゆみやなく ほんまるあとに はちのつぼのすみよしさん

 八の坪は、地名としてはありません。台帳では、「土居の内」となっています。標高150mの水田地帯より、30mほどの土のとりでをめぐらした中世の城郭です。いわゆる丘城の田原城です。ここを八の坪と言っています。また、この山は、生駒山系にあり、村人は城山とは言わないで、「住吉さん」と言っています。本丸跡に、古い、磐船神社の分祀で、古堤街道沿いの住吉神社(石風呂のあるところ)より古いものです。

よめにゆく さみずのしみず おいしかろ

 佐水は、正伝寺裏側から見える集落です。とてもさびしいところで、家は数軒しかなかったようです。大昔は、「さみず三軒さびしかろ」と言われていました。『大阪府全志』には「三水」と書かれています。佐水は、清水の変化したものでしょう。標高160メートルの山系から、湧き出るおいしい水は、佐水の人たちを喜ばせたことでしょう。
田原は、旧村の水道は、いまも地下水を利用しています。

らいはいの いいもりれいえん やすらかに

 祖先の御霊やすらかにと、守口市、門真市、大東市、四條畷市の四市で公園墓地飯盛霊園が造営された。面積は42.6ヘクタール。斎場は、昭和43年に開設。老朽のため,平成6年に新築。最新技術を駆使。無煙無臭の無公害施設。

りょうごくの はしのたもとに ふけんきょうかいひ

 天の川が、大阪と奈良の国境です。古堤街道と磐船街道が接している天の川の上流に、上田原から奈良県南田原に架かる橋があります。これが両国橋です。そのたもとに二基の府県境界碑が立っています。一つは、年号は書いていませんが、明治のもので、もう一つは、「從是西北大阪府管轄」「大阪府奈良縣境界標」「住道郡山線北河内郡田原村大字上田原」「大正十二年十月建」とあり、高さ170センチ幅27.24センチの角柱です。

るいねんの だんじりまつり なおつづけ

 神座を木車に乗せ、車上では太鼓を叩いて拍子をとり、氏子が威勢よく、これを担い、あるいは綱で引いて村中をねり歩く。豊作感謝と氏子繁栄の祭りであり、明和年間(1764年から1771年)より出来始めたらしく、市内10台ほど、旧村々には、地車保存会も結成されている。秋祭りには、鉦太鼓を鳴り響かせながら地車が村なかをねり歩きます。地車とは、木車の上に神座を乗せたもので、若者がかつぎ、子どもらがひいて氏子地をまわります。氏子は五穀豊穣・村内安全を感謝します。地車は、明和年間(1760年代)よりできはじめたらしく、田原には住吉神社にあります。

れいじょうを きいからみのへ じゅんれいす

 十三仏の右隣に西国三十三ヶ所巡礼碑がある。紀伊(和歌山)の那智・青岸渡寺が一番の霊場。そこから、三十三番の美濃(岐阜)の華厳寺に至るまでの往復路を巡る。巡礼碑は、巡礼の満願の喜びを記念したもの。その碑文に手を合わすことによって、村人は観音さんの功徳をたくし、日々感謝の思いを新たにしている。

れいこもる すみよしじんじゃに いしのふろ

 神社の創建は江戸初期であろう。祭神は海の神、住吉四神。淀川、天川上流にあって、上・下田原村民の氏神である。境内に安置されている石風呂は、天川付近から出土したと伝えられ、鎌倉期の作、祭神事の潔斎、浄身用に使用されたもので、府指定有形文化財である。

ろくじぞう たわらじゅっかしょ ぼちまもる

 墓地の入口には、必ず六地蔵さんがいる。普通、六石六地蔵だが、とくに照涌墓地にある一石六地蔵(元禄9年1696)はめずらしい。近くには大東市の龍間に一基ある。「人間は、前世の業によって、地獄,餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界の六道を輪廻するという、この六道世界での苦しみを軽減すべく、死後の守り神として六地蔵を祀るのである。」という。田原には十ヶ所の墓地がある。

わがさとの いくえいのはっしょう ほうげんじ

 田原小学校沿革誌に「明治6年5月19日の創立に係り法元寺本堂を仮用し、堀溝郷学校田原分校と称す」とある。明治11年9月に上田原・下田原の境界である、農協前のところに移転し、平成2年9月に現在地に移った。法元寺の開基は江戸初期以前ではないかといわれている。真言宗で、大日如来が本尊。「幕末期には秀盛和尚なる傑僧あって、寺小屋を開き、地域社会の啓蒙に務めた」と語り伝えられている。