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四條畷小学校の歩み

四條畷小学校の歩みの画像1

明治5年、学制が公布され、同年6月14日、四條畷での最初の学校は堀溝郷学の中野分校として、中野の正法寺につくられた。四條畷小学校の前身である。

当時の四條畷は、岡山村・中野村・中野上郷(清滝村)・逢阪郷(逢阪村)、南野村・砂村・蔀屋村・上田原村・下田原村となっていた。

この中野校の学区は、中野・清滝・逢阪・岡山・南野の範囲であり、蔀屋・砂は堀溝の本校の校区となっていたようである。

また田原村は下田原に田原分校として発足する。その後、南野は西敬寺西側に南野校を設立し(明治8年)、中野校から分かれ、正法寺の中野
分校は、明治17年に現在の四條畷農協の場所に塾を修理して移転している。(この頃の児童数は、明治15年の記録によると児童数112人、内、男子76人、女子36人となっている)。

ところが、児童数のわりには校舎がせまく、翌年より校舎新築に着手、明治19年5月29日に、同じ農協の地に竣工した。折しも、初代文相・森有礼の小学校令発布により)、尋常小学校として4年の就学が定められ、校名も甲可の名を冠して甲可小学校となる。

当時のお金で、村費600円、寄付金400円をかけた工事で屋根は瓦ぶきだが、窓は紙障子という教室4室職員室その他ができ上がり、甲可小学校としての体裁がほぼ整った。

本校の創立記念日を最初の正法寺中野分校にせずこの日(明治19年5月29日)としたのは、おそらく堀溝校の分校として出発したいきさつがあったからだろうと思われる。翌年、正式に甲可尋常小学校という校名がつけられる。

四條畷小学校の歩みの画像2

この時の増築校舎の窓は、紙障子ではなく、はじめてガラスが入ったという。
場所は現在の中野児童遊園の東から東高野街道までが全部校地であった。

その後、村の協力や教師たちの努力により甲可校の教育は進展し就学児童の数も増加していったのだが、明治期の学校は、不就学の児童を学校に来させることにたいへん力を入れていたようである。

ちなみに、本校初代校長の宮田仲三郎氏(明治22年12月~39年1月)が残している記録の中で学校運営の基本方針として「不就学奨励に奔走せし事」「職員は村内に配住する事」とある。不就学児童勧誘のために、幻灯会を開いたり、村中を説得に歩きまわったようである。

このような就学率向上の努力が明治33年の義務制(小4まで無月謝)の基礎をつくったものと思われる。

大正2年4月に高等料を併置して甲可尋常高等小学校となり、昭和7年には甲可村が四條畷村と改称されるにともない、校名も四條畷尋常
高等小学校となる。

その後、校舎も増改築を重ね、昭和11年の頃には、接地は甲可校当初の北側、現在市民総合センターのあたり一帯が校地であり、正門西側に村役場の建物があった。教室は6棟、教室数23室(うち図書室1)その他付属室また屋内体育館も東側にあった。

昭和9年9月の室戸台風は、この校舎にも大きな打撃をあたえ、応急の修理で授業を進めたのだが、四條畷の将来を考える中で、この際、抜本的に学校建設をという気運が高まり、現在の暇小のある場所に移転改築の方針が決定された。

四條畷小学校の歩みの画像3

昭和12年12月、校舎移転改築工事が着手され、同13年5月に建築総経費86,557円87銭で、当時としては実にりっぱな学校ができ上がった。
6月1日の落成式には「橘匂うこの佳き日、我学び舎は竣立ちぬ、日本の光いやそへて畷の楠に栄あれ」と歌って祝ったという。

新しい校舎と共に意欲的に畷小の教育は進められていくのだが、日中戦争・太平洋戦争と戦時色がこくなり、昭和16年、全国の小学校が一斉に国民学校と改称され、本校も四條畷国民学校となる。

校舎・設備の修理も思うにまかせず、運動場を畑にしなければならないような苦難の時期を過ごしていくのだが、昭和20年終戦、昭和22年には町制の実施にともない、校名も四條畷町立小学校となる。

戦後の混乱の中でも、新しい時代の教育が地域の協力を得ながら積極的に進められ、昭和26、27年には、大阪府の健康優良校として表彰されている。

また、昭和31年には当時としては珍しかったプールが接合北側に地域・PTAの熱心な活動により町営プールとしてつくられ、現在も修繕をしながらも使用されている。

その後、昭和40年をこえると、急激な人口増加が続き、学校も増築に増築を重ねていくのだが、昭和45年には、市制実施とともに四條畷市立四條畷小学校となり現在に至っている。

この間、児童数の増加により、昭和44年4月四條畷南小学校、昭和48年4月忍ヶ丘小学校、昭和49年4月、四條畷東小学校、昭和52年4月、岡部小学校と分離が続き、現在の校区となっている。
明治19年学校創立以来満100年、この間の卒業生、約12,000人である。