ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
トップ > 組織でさがす > 学校教育課 > ~ひとふでウォーク~No2

本文

~ひとふでウォーク~No2

ひとふでウォークタイトル

ひとふでウォーク

ひとふでウォーク2

岡部小学校からなわて水みらいセンターまで約15分 忍ヶ丘駅から約3月5日キロメートル

なわて水みらいセンター

しの画像1
しの画像2


塩づくり河内湖畔に馬の牧

なわて水みらいセンターにある立て札です。「聖観音の大正寺」と詠われた【し】と同じ文字がある句です。大昔、この辺りまで海であったのが、堰き止められて湖となり古墳時代の中・後期、古代河内湖畔の蔀屋北遺跡から馬一体分の骨、歯、木製のあぶみ、鞍や鉄製のくつわの一部、百済系の陶質土器、韓式系土器などが出土しました。朝鮮半島から船に乗って馬と渡来人がわたってきた証です。そして、その証拠となる馬に与える塩をつくる製塩土器が大量に出土したのです。

次へ

蔀屋本町14番付近

ぬ


ぬれながら 旅人守る 道しるべ

昔の街道の道筋には、角型道標、地蔵道しるべなどが数多くあります。市内で現存する最古の道しるべが、寝屋川市側の堀溝と道ひとつ隔てた四條畷市側の蔀屋とにあります。清滝街道と呼ばれた蔀屋村起点にある自然石道標の裏には「延宝三乙(きのと)卯(う)年(ねん)七月五日と刻まれています。年号に表すと1675年、340年以上も人々を見守っているのです。

次へ新川右手のあぜ道にそって突当り

蔀屋本町9番付近

ふの画像1
ふの画像2


深野池 雁屋泊・蔀屋浜の 舟つきば

蔀屋地区で見つけにくい立て札です。そのヒントがこの川です。新川と呼ばれています。この川の畦道を歩いていった突き当たりにあります。ここまで来るには、先ほどの道しるべのある道をそのまま進み、住宅街をぬけて新川に出てきます。昔、大和川が北流して深野池をつくり、深野池は雁屋、寝屋川、河北に迫っていました。18世紀の初め、大和川のつけかえ、深野池の干拓後の寝屋川舟運こそ、この地と大阪西部を結ぶ主要動脈でありました。その舟つき場が南野の雁屋泊と中野地区の蔀屋浜にありました。

次へなわて水みらいセンターからここまで約1月3日キロメートル

二丁通町21番付近清滝川沿い

ひの画像1
ひの画像2


火から 世を守る 愛宕の常夜燈

清滝川沿いにある祠の横にある立て札には、愛宕の常夜燈と書いてあります。京都市右京区の北西にある愛宕神社を祀る常夜燈が市内に幾つか残っています。古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ、火事が起こったときの延焼をくいとめるには、隣家をたたき壊す以外には火の勢いを抑える術はなく、神仏頼みが心の拠り所でありました。

次へ常夜灯からここまで 約2月7日キロメートル

楠正行公御墓所

か


雁屋川 家並み競って 寝屋川へ

雁屋地区から楠公通りに向かう歩道の下に、昔は川が流れていたのです。それが権現川の支流である雁屋川です。この川に沿って古い集落が開け、代官屋敷、郷蔵、地車小屋などが建ち並んでいました。現在、かすかな面影からその当時が偲ばれます。郵便局の裏に四條畷市を代表する楠正行の墓があります。写真正面奥の右手に雁屋川を詠んだ句の立て札があります。

くの画像


くすの木の こもれ日あびる 小楠公

四條畷の戦いは、南朝方の楠正行と北朝方の足利尊氏の家臣高師直との間で、北朝方の圧倒的優位の中で行われました。軍事的に南朝方は本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになってきました。そこで、足利方は本格的な南朝攻撃を決意し、ついに1348年1月に高師直を大将とする大軍を編成して、北上する楠軍と四條畷で対峙したのでした。というのがこの戦いに至る経緯となっています。楠軍は足利方の圧倒的な兵力の前に敗れることになります。敗戦に際して南朝方の大将である楠正行は、弟の正時と刺し違えて自決しています。

次へ

和田賢秀墓地

わの画像1
わの画像2


和田の墓 昔とへば すすき尾花の あらし吹く

和田賢秀は楠木正季の五男(末男)で、楠木正成の甥にあたります。楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、正行に従い常に参戦しており、四條畷の戦いに際しても従軍していました。正行らが自刃した後、高師直の陣に潜入していたところをかつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門に討たれてしまいます。討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、本宮太郎左衛門はそれが元で死んだとされており、土地の人々は賢秀の霊のことを歯噛様(はがみさま)、転じて歯神様として崇めるようになったのだそうです。

次へ墓所からここまで 約3月7日キロメートル

市立歴史民俗資料館

おの画像1
おの画像2


往来の 弘法大師の 高野道

弘法大師空海が高野山に金剛峯寺を建立し、京都の東寺を823年に下賜されて以来、京都と高野山を結ぶ道を東高野街道と呼ばれるようになりました。四條畷市内の南北にその古道が通っています。忍ヶ丘駅からトンボ池公園を通り、三徳稲荷を通過して旧170号に出てきます。そして、清滝街道と交差する所(左手)にある道しるべを右折して中野交番所から左折します。そこにある石の橋は三坪橋と呼ばれ、江戸時代の面影を残す橋だと言われています。そして、市立歴史民俗資料館前にやってきます。その道も東高野街道の一部です。

次へ

四條畷消防署

ま
への画像


まこと 夫婦の愛を説く 鴈塔婆

四條畷に残る民話のひとつがこの立て札の句に書いてあります。雁塔婆の雁は(鳥)、塔婆は故人や先祖を供養する追善供養の目的で立てられます。塔婆を立てることが「善」とされており、「塔婆を立てる=善を積む」といった行いによって、故人の冥福につながると考えられているのですが、この民話は、昔、1人の猟師が雁を射落とすと、首のない雄雁でありました。数週間後、射落とした雌雁は、雄雁の首を羽交いに温めていたのです。愛する者のなきがらを温め、やせ衰えた雌の雁、連れ添うものの愛の深さに猟師は弓矢を折り、雁の霊を弔ったのです。


平穏な 世にこそしのべ 西南の碑

もう一基の立て札は、明治11年(1878)に建立された近代戦の最初とされる西南の役の戦没者慰霊碑を詠んだものです。第2次世界大戦の犠牲者の上に平和日本が訪れました。戦争のことを「役」とも呼びますが、役とは労働奉仕を意味するものです。庶民の労働、犠牲の上に戦争は行われてきたのです。

このコースは約4月7日キロメートルあります。少し長く感じる時は、途中トイレ休憩を兼ねてコース途上の店に立ち寄ってみては どうでしょう。
忍ヶ丘駅から四條畷消防署まで約8月2日キロメートル

郷土史カルタひとふでウォーク 紹介

ひとふでウォークコース紹介

チャレンジし易い「市街地コース1.」
市街地コース1

約5キロメートルの「市街地コース2.」
市街地コース2

ちょっとハードな「飯盛山コース」
飯盛山コース

「田原の里コース」
田原の里コース

「逢阪清滝峠コース」
逢阪清滝峠コース

各コースの地図をクリックすると、詳しいコースの案内ページをご覧いただけます。