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四條畷郷土史カルタ(マップ付)

四條畷郷土史カルタ名所地(全体図)

四条畷郷土史カルタマップ全体図

各エリア紹介

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四條畷郷土史カルタ名所地(Aエリア)

四條畷郷土史カルタ名所地A地区

せんこの れきしをひめる さらがわ


讃良(さらら・ささら・さんら)川は寝屋川市と当市を分ける河川で、その名称から推測すると、当地域こそ讃良(さらら)郡の中心であったろう。付近には讃良岡山遺跡があり、縄文時代後期を主として高坏深鉢などが出土し、府下でも著名な遺跡である。旧石器の石刃なども発見されている。

はくほうのいらか ろまんいざなう さらでら


白鳳期の軒丸瓦が讃良寺跡から出土した。古代寺院は、川の北に位置するのが通例であることから見て、現在の讃良寺共同墓地付近と考えられ、鎌倉期までは存続したとの文献も見出されるが、それ以降は明白ではない。大正寺の聖観音も讃良寺の本尊だったとの説もある。

しょうかんのんの だいしょうじ さえわたるかねのね


大正寺の聖観音は藤原文化期の一木造り、市内重要文化財の最たるものである。寺内の梵鐘は造形美、音色の美しさ、余韻の長さに定評があり、古くは、甲可八景の一つとして、大正寺晨鐘は著名であった。今でも、正午を知らせる鐘の音は、界隈に親しまれている。

しおづくり かわちこはんに うまのまき


古墳時代の中・後期、古代河内湖畔に位置する蔀屋北遺跡から馬一体分の骨格、馬の歯、木製のあぶみ、鞍、鉄製のくつわの一部、百済系の陶質土器、韓式系土器など出土。朝鮮半島から船に乗って馬と渡来人がわたってきた。馬に与える塩を作る製塩土器も大量に出土。

おかべがわ くるまいきかう はっちょうづつみ


岡部川とは、岡ノ辺を流れる川を意味するのであろうか。砂、中野の境界を流れる四條畷の主要河川の一つである。川脇を固める土堤道は八丁堤と呼称され、砂村から、堀溝への主要街道であった。両側に藪が繁り、昔の面影を今に残すが、今は車の往来もはげしくなった。

おうらいの こうぼうだいしの こうやみち


弘法大師空海が816年、高野山に金剛峰寺を建立、京都の東寺を823年に下賜されてより、この両地を結ぶ高野道と呼ばれる聖地巡礼への道。四條畷の南北する古道は、忍ヶ丘駅前→トンボ池公園→三徳稲荷→現東高野街道→道しるべ・清滝街道と交差→三坪橋を南に→墓ノ堂古墳→和田賢秀の墓。

なぞひめる どうたくしゅつどの しじょうなわて


農耕の始まった2000年前頃の弥生時代、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国」と中国史書に語られるように原始国家が成立する。支配者が祭祀用に用いると伝えられる銅鐸が、四條畷出土として、銅鐸研究に記載されているが、市内のいずれか定かではない。

すなおかやまの きりしたん とつくにのふみにのる


ザヴィエルの来航に続いて、数多くの宣教師が来朝して各地に布教した。?1582年には国内信徒数15万。うち、砂、岡山に3500人の信徒があり、教会、十字架が建って盛況だったことなど、当地領主の結城氏の名と共に耶蘇会士通信文の中に伝えられる。

ゆうそうな ごうぞくねむる しのぶがおかこふん


JR忍ケ丘駅西方300メートルの丘陵上に眠る。昭和9年(1934年)の室戸台風で壊れた忍陵神社を修復中、社殿の下から発見された前方後円墳である。後円部の直径45メートル、前方部は北、大正寺に及んで全長は87メートル。石室は蔀ごしに望見出来る。大阪でも著名な前期古墳である。府指定史跡。

もはやしょうりは おかやまのじんの おかちやま


忍岡丘陵は標高36メートル、頂は削平され、今は忍陵神社、会館などが建ち並ぶが、中世期には地域豪族の丘城であったろう。1615年5月の大坂夏の陣には、徳川秀忠が本陣をしき、裸城と化した大坂方へ悠々と兵を進めた。江戸期には、忍岡を御勝山とも呼んだ。

めをさます つちのなかから どきやいどのあと


当市には遺跡が多い。片町線複線化工事が始まった頃から、岡山の南山下遺跡、中野遺跡、中野3丁目の奈良井遺跡など数カ所から、縄文時代から室町時代へかけての土器、石器、古墳時代の下駄、家形埴輪、馬形埴輪、井戸跡など、貴重な資料が続々と姿を現している。

ぬれながら たびびとまもる みちしるべ


当市内を走った往時の高野街道、枚方街道、清滝街道の道筋には、角型道標、地蔵道しるべなどが数多い。中でも現存する最古の道しるべは、清滝街道の蔀屋村起点にあり「延宝三乙卯年七月五日 これより東清瀧 やハたみちすじ」(1675年)の自然石道標は、330年以上も人々を見守ってきた。

ふこのいけ かりやどまり・しとみやはまの ふなつきば


大和川が北流して深野池をつくり、深野池は雁屋、寝屋川、河北に迫っていた。18世紀の初、大和川のつけかえ、深野池の干拓後の寝屋川舟運こそ、当地と大阪を結ぶ主要動脈であった。その舟つき場は、南野の雁屋泊と中野地区の蔀屋浜にあり、昭和10年代まで続く。

へいおんな よにこそしのべ せいなんのひ


第2次世界大戦の犠牲者の上に平和日本が訪れた。戦争のことを「役」とも呼ぶが、役とは労働奉仕を意味するもので、庶民の労働、犠牲の上に戦争は行われてきた。近代戦の最初とされる西南の役の、戦没者慰霊碑が明治11年(1878年)に建立され、現在消防署前に祀られる。

まこと めおとのあいをとく がんとうば


文明年間(1469年から1486年)、一人の猟師が雁を射落とすと、首のない雌雁である。数旬後射落とした雄雁は、雌雁の首を羽交いに温めていた。愛する者のなきがらを温め、悲哀咽喉をつまらせてやせ衰えた雄の雁、連れ添うものの愛の深さに胸はつまり、猟師は弓矢をおり、雁の霊を弔ったという。

ついぜんくよう せいぜんにいのる じゅうさんぶつ


初七日供養から三十三年忌までを供養する十三仏は、自身が生前に建立した逆修仏である。市内には上田原住吉神社内、照涌墓地、南野の弥勤寺内とその裏側の辻道、中野正法寺、そして中野共同墓地に2基あって計7基。一つの自治体としては数多い。

ねがいごと みみなしじぞうに てをあわす


耳のない地蔵さんが、下田原の法元寺内入口に祀られている。高さは30センチぐらい、年代を究めることは出来ないが、室町期か江戸初期のものであろう。「耳無地蔵尊」の標識石柱が建って、「北へ一丁」と記すほどで、耳S病全快を祈る信者は、今も絶えないという。

うつくしや ふるさとほこる さぎそうのはな


さぎそうは、高さ30から40センチ、先に1から4の花をつけ、色は純白で優美、純潔な感を与える。花容が白鷺に似ていることから、その名があり、葉は茎の基部に互生する。現在は観賞用にも栽培されるが、本来は山野の湿地帯に自生する夏の花で、当市域の室池周辺に多生する。

うまのほね かみにささげる さいしあと


奈良井遺跡から古墳時代の中・後期の祭祀場(馬まつり)を発掘。大切な馬を「いけにえ」として神に捧げる。七頭の馬の骨、「いけにえ」の代用として土製人形・土製馬形・ミニチユア土器など出土。敷石炉跡(製塩炉の遺構)。製塩土器、周辺から韓式土器など出土。

てんぴょうの しょうほうじのともしび いまももえ


白鳳に始まり天平を経て室町期に至る遺物が出土した清滝の旧正法寺。瓦片、土器類、井戸跡、柱穴、礎石から推して、七堂伽藍を備えた壮大な寺院であった。西方500mの現在地に移ったのは天正17年(1589年)、寺内には天文期の六字名号碑、十三仏等文化財多し。

ひから よをまもる あたごのじょうやとう


昔も今も火事ほど恐ろしいものはない。殊に藁葺きの家屋構造であった江戸時代には、延焼をくいとめるには、隣家を叩きこわす以外に火勢に抗する術はなく、神仏頼みが心の拠りどころであった。京都北西の防火神・愛宕神社を祀る常夜燈が、中野本町と二丁通町にある。

おかべがわ くるまいきかう はっちょうづつみ


岡部川とは、岡ノ辺を流れる川を意味するのであろうか。砂、中野の境界を流れる四條畷の主要河川の一つである。川脇を固める土堤道は八丁堤と呼称され、砂村から、堀溝への主要街道であった。両側に藪が繁り、昔の面影を今に残すが、今は車の往来もはげしくなった。

わだのはか むかしとえば すすきおばなの あらしふく


四條畷神社大鳥居の北100メートル、楠正行の家臣和田賢秀(源秀)を祀る。高さ1メートルの墓石。正面に和田源秀戦死墓、裏に、「昔とへば すすき尾花のあらし吹く」「天保二年九月 浪速の人 永田友之」とある。古文書では当地、字地を薬師と呼よび、歯神さんとして崇められていた。府指定史跡。

みろくじの しゃりぶきかんのん くさいやす


延宝年間(1673年から1680年)、17歳の美女音羽は、顔面の悪瘡が高じて、当人、家人の嘆き限りなし。尊像を祀る一間の内に閉じ籠り、悲を救い給えと祈った。満願の暁の頃、我が身を顧みなければ悪瘡癒えて恙無し。尊像を仰げば、身に舎利を流し、一身をもって代らせ給うたと云う。

かりやがわ やなみきそってねやがわへ


雁屋を流れる権現川の支流、川はそこを流れる地名で名付けられるのが通例である。仮屋、刈屋、鴈屋とも書き、この川に沿って古い集落が開け、代官屋敷、郷蔵、地車小屋などが立ち並んだ。雁屋川を堰して雁屋泊の船着場があり、五軒堀川を経て寝屋川へと続く。雁屋川は現在暗渠になっている。

くすのきの こもれびあびる しょうなんこう


小楠公墓地の楠の木は樹齢587年、幹の廻り12メートル以上、巨龍昇天のうねりに似た神木で側に建った石碑7メートル50センチ。境域を拡張、三年間を要して明治11年1月5日に建碑式を挙行。その真東1000メートルの飯盛山麓に四條畷神社が鎮座したのは明治23年のことである。楠の木は、府指定天然記念物。墓地は、府指定史跡。

四條畷郷土史カルタ名所地(Bエリア)

四條畷郷土史カルタマップB

ふこのいけ かりやどまり・しとみやはまの ふなつきば


大和川が北流して深野池をつくり、深野池は雁屋、寝屋川、河北に迫っていた。18世紀の初、大和川のつけかえ、深野池の干拓後の寝屋川舟運こそ、当地と大阪を結ぶ主要動脈であった。その舟つき場は、南野の雁屋泊と中野地区の蔀屋浜にあり、昭和10年代まで続く。

よりあえば ひとつのせっかん ここにあり


中野正法寺の本堂前に、長さ156センチ、幅79センチ、高さ40センチの貯水槽がある。これは石棺を転用したもので、その蓋石は、国中神社南側入口の手洗鉢の背石であることが判明。この石棺は、旧正法寺付近にあった双子塚出土のものと伝えられる。中野正法寺へ入るところに、小さな石橋がある。古墳時代の石棺の身を転用したもの、その蓋石は境内に建つ六字名号碑、土台の石は石棺の身の一部であることがわかった。

るいねんだんじりょうまつりなおつづけの画像


神座を木車に乗せ、車上では太鼓を叩いて拍子をとり、氏子が威勢よく、これを担い、あるいは綱で引いて村中をねり歩く。豊作感謝と氏子繁栄の祭りであり、明和年間(1764年から1771年)より出来始めたらしく、市内10台ほど、旧村々には、地車保存会も結成されている。

とちのひと みんながうやまう ぎょうじゃさん


役行者は修験道の祖、天空を飛翔する神通力を得た験者として、広く尊崇された。当地には忍岡、正法寺、上清滝、逢阪に見出される。岡山行者堂は宝暦より260年間、4月、9月7日に十数人の山伏が集まり、盛大な護摩供養を行い、村中安全を祈願する。

りゅうびじで あまごいをする さとのひと


天平の世、旱魃あって里民大いに苦しむ。行基憐れんで山間に立ち、法華経を誦し雨乞いすれば大雨沛然たり。龍王は身をさいて里民を救ったのであろう。身は三分されて落下した。龍頭、龍胴は龍間に、尾の落下した所に龍尾寺を建てて、その霊を弔ったという。

ほうさくきがん わがまちにみっつあり しきないしゃ


920年に成る延喜式にのる古社が、市内に三つある。岡山の津鉾(忍陵)神社・清滝の国中神社・南野の御机神社。南北2000mの地域に三つの式内社があることは、当地の開花の古さを物語る。水稲耕作民へ成長した先人たちは、豊作を祈って祀り始めたものであろう。

けいりゅうを あつめておちるや きよたきばくふ


白滝の高さ20メートル。国道163号に沿う清滝池より、山道を南へ500メートルの森閑の地にある。滝にうたれて不乱の祈りを捧げ、現状打開の啓示を与えてくれた神々の碑が数多い。この滝の周辺集落を清滝と呼び、当地域を流れ下る川を清滝川と名付けたものであろう。

きよたきがわ やまとをむんで みちにそう


清滝川の源は逢阪の龍王川に発し、流れ流れて中野、二丁通を経て寝屋川に注ぐ。この川に沿って、大和と河内を結ぶのが清滝街道である。土地の人は清滝峠越え大和街道とも、伊勢街道とも呼んだが、今、その古道のおもかげは、上清滝付近に僅かに残っている。

さちおおかれと げんしのいのり きょせきにつたしげる


3メートルほどの巨石が双立する真中に、役行者石像が祀られている。巨石信仰の原始の姿をとどめるものと言えよう。その上を蔦かずらがおうて鬱蒼たる趣がある。地元逢阪が大坂の文字で登場して800年以上、その間の聖地であろう。

にこやかに えみをうかべる じぞうさん


村のはずれのお地蔵さん、いつもにこにこ見てござる、と童謡にもうたわれるように、村はずれや峠の上、家並みや田畑の道筋に数多かった。近時は多く祠堂内に祀られるようになった。右手に錫杖をつき、家を訪れてまで、願い事を聞きとどけてくださる。

えんげんの ねんげつきざむや おおさかにごりんとう


五輪塔は基部から、地・水・火・風・空輪と名称される。当塔の地輪部中央には「大坂一結衆 延元元丙子年三月日造立之」の銘があり、肉眼で読み取れるほどの鮮明さ。高さ180センチ、古さと美しさ府指定有形文化財に指定された。1336年の往古を語る供養塔である。

のぼりつめ きよたきとうげの ちゃやのあと


貝原益軒は「山路十八町行て、清滝嶺の茶屋一宇あり、是大坂越の嶺なり」と。元禄の昔に語られた茶屋一宇は、江戸末期まで存在したらしく、古老たちは「おまん茶屋」と呼ぶ。「一度しおれて二度咲く花は、峠おまんさんかヒバの花」と、女主人の美貌を語り伝える。

ここかしこ すいしゃのなごり ごんげんがわ


明治初期の大阪府年誌によれば、交野のソーメン、茨田の蓮根、沙良の粉箔といわれるほど、当地域では、水車を動力として薬種、香料、マンガン等を生産し、米麦を精白した。これは昭和20年代まで続き、現在の中塚金属、成和工業は、その発展といえよう。

いいもりじょう よりてながよし はをきそう


飯盛山は、生駒山系より分岐した一本の幹にたとえられて南北1000メートル、西部側は屹立して標高315メートル。戦国時代には巨大な山城として、豪族たちの拠点となった。なかでも下剋上武将として著名な三好長慶は、1560年ここに拠って畿内に君臨する。

むろいけの こおりたくわえ みやこゆき


室池は標高272メートルに開け、砂溜池、中池、古池、新池の4池から成り、緑の文化都市四條畷が誇る地帯である。江戸期までは氷室池と呼ばれ、平安の昔には延喜式に、「讃良郡氷室一処」と記される通り、氷を貯え、京へと運ばれて、宮廷人の使用するものであった。

らいはいしゅぎょう れいけんあらたか ごんげんのたき


権現川の名称起源となる滝で、高さ20メートル、その源は龍間付近に発し、生駒水系の滴水を集めて当市内南東部の溪流となり、寝屋川へと注ぐ河川の上流にある。権現とは権に現れる神を意味するのであって、昔から多くの修験者が祈願をこめた滝であったと云えよう。

うつくしや ふるさとほこる さぎそうのはな


さぎそうは、高さ30から40センチ、先に1から4の花をつけ、色は純白で優美、純潔な感を与える。花容が白鷺に似ていることから、その名があり、葉は茎の基部に互生する。現在は観賞用にも栽培されるが、本来は山野の湿地帯に自生する夏の花で、当市域の室池周辺に多生する。

うまのほね かみにささげる さいしあと


奈良井遺跡から古墳時代の中・後期の祭祀場(馬まつり)を発掘。大切な馬を「いけにえ」として神に捧げる。七頭の馬の骨、「いけにえ」の代用として土製人形・土製馬形・ミニチユア土器など出土。敷石炉跡(製塩炉の遺構)。製塩土器、周辺から韓式土器など出土。

四條畷郷土史カルタ名所地(Cエリア)

四條畷郷土史カルタマップC

ねがいごと みみなしじぞうに てをあわす


耳のない地蔵さんが、下田原の法元寺内入口に祀られている。高さは30センチぐらい、年代を究めることは出来ないが、室町期か江戸初期のものであろう。「耳無地蔵尊」の標識石柱が建って、「北へ一丁」と記すほどで、耳S病全快を祈る信者は、今も絶えないという。

ろくじぞう にじゅうはっかしょの ぼちまもる


人間は前世の業によって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界の六道を輪廻すると云う。この六道世界での苦しみを軽減すべく、死後の守り神として六地蔵を祀るのである。墓地は当市内28ヶ所あって、墓地ごとに六石六地蔵、あるいは一石六地蔵を祀っている。

たわらのさと やまふところにしずかなり


元禄2年(1689年)2月11日、当地を旅行した貝原益軒はいう。「おくの谷中七・八町東に行けば、谷の内すこぶる広し。天の川流る。其の里を田原と云う。恰も陶淵明が桃花源記に書けるが如しと。」当市域18.9平方kmの約半分を占めて人口は約9300人。

ちたかきさと しょうでんじ へいあんこうきのやくしさん


正傳寺は佛法山と号して融通念仏宗で、本尊は阿弥陀如来。田原村民の治病医学の本尊として親しく信仰を集めている薬師さんは、本堂の東側に安置されている。高さ約2メートル、光背2メートル50。もと森福寺と号する上田原所在の真言宗寺院であったことが天保15年(1844年)明細帳に見える。現在廃寺で明治初年ここに遷座した。薬師さんは、市指定有形文化財。

やまなかに こけむすごりんとう げっせんじぼち


旧月泉寺墓地は、上田原山中にあって、五輪塔や卵塔が建ち並ぶ。3基の五輪塔がのる土台のすべては、五輪塔地輪の部で築き上げたもの。五輪塔林立の往時が偲ばれる。戦国期、当地を支配した田原対馬守一族に縁ある人たちを祀ったものと云う。墓地は新しい道路を横切ったところに移設。墓地発掘調査のとき、千光寺の瓦や青磁の香炉などが出土。またキリシタン墓碑も見つかった。青磁の香炉は府指定有形文化財。

れいこもる すみよしじんじゃに いしのふろ


神社の創建は江戸初期であろう。祭神は海の神、住吉四神。淀川、天川上流にあって、上・下田原村民の氏神である。境内に安置されている石風呂は、天川付近から出土したと伝えられ、鎌倉期の作、祭神事の潔斎、浄身用に使用されたもので、府指定有形文化財である。

れいまんの きりしたんぼひ せんこうじあと


寺口遺跡の千光寺跡から、安土桃山時代の石製のキリシタン墓碑を発掘。花崗岩で五角形に「十字とH(エータ・イエズス会を示す)」に「天正九年辛巳礼幡 八月七日」(1581年)と刻まれている。「礼幡」は、飯盛城主・三好長慶のもとで布教をうけた田原レイマンの洗礼名と思われる。墓碑は、人物が特定できる唯一のもの、日本最古のもので府指定有形文化財。

あまのがわ かわちやまとの くにざかい


生駒山系東斜面の滴水を集め、田原の里で水系を整える天野川は、磐船神社の秘境をつくり、交野、枚方を経て淀川に注ぐ。この水系は文明発生地域として重視され、国境となっていた。大和を東田原、河内は西田原。西田原は水系の位置により、上田原・下田原に二分される。

そそりたつ たわらじょう もぐちやのいしかくしいど


永禄年間(1558年から1569年)、田原対馬守は上田原字八ノ坪に拠点をおく武将だったという。天野川上流に聳えたつ30メートルほどの田原城は、土居の内とも呼ばれ、土豪武士の居館の名残をとどめる。他に、城の下、門口、水の谷、矢の石などの城郭用語を、古老は語り伝える。