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~ひとふでウォーク~No1
郷土史カルタ ひとふでウォーク No1
ひとふでウォーク1
JR忍ヶ丘駅前
め
目をさます 土の中から 土器や井戸の跡
忍ヶ丘駅前の立て札には、『目を覚ます 土の中から 土器や井戸の跡』という句が詠まれています。昔、JR学研都市線が片町線と呼ばれ蒸気機関車(汽車)が走っていました。定刻に走る汽車の汽笛を聞いては、「ポー」が鳴ったら急いで学校に行く合図でした。電化になってから、しばらくの間は単線でしたので、駅員さんが走ってくる乗客に「早くおいでやぁ~」と言って電車のドアを押さえて待ってくれました。それはのどかな駅でした。この線路を複線化するときに、この周辺から縄文時代から室町時代へかけての土器、石器、古墳時代の馬形埴輪等貴重な資料が発見されました。
東に約8分(0.5キロメートル)
忍陵神社
「しのぶがおかじんじゃ」の附近一帯を、忍ケ丘と呼ばれています。「にんりょうじんじゃ」と読まれることもあります。
ゆ
勇壮な 豪族ねむる 忍岡古墳
昭和9年(1934)の室戸台風で壊れた忍陵神社を修復中に社殿の下から古墳が発見されました。前方後円墳で後円部の直径は45m、前方部は全長87m4世紀中頃の築造だそうです。この建物は阪神淡路大震災の時に傾いてしまったのですが、平成14年(2002)にこのように再建されました。
も
もはや勝利は 岡山の陣の 御勝山
1615年5月の大坂夏の陣において、徳川家康の三男秀忠はここ忍陵神社から裸城となった大坂城へ悠々と兵を進めたのでありました。
すぐ北側
忍陵神社 すぐ北側
この建物の中には平安時代の木造聖観音が安置されています。
し
聖観音の 大正寺 さえわたる鐘の音
忍陵神社のすぐ近くに大正寺があります。檀家の人はこのお寺を「たいしょうじ」と呼び親しんできましたが、今では、「だいしょうじ」が正しい読み方だそうです。本堂の前に観音堂があります。この建物の中に聖観音がおられます。平安時代後半の一木造りです。昔、このような金箔の観音さんだったそうです。
大正寺より 北北西 400メートル
讃良寺共同墓地前
は
白鳳の甍 ロマンいざなう 讃良寺
この句にある讃良寺から白鳳期の軒丸瓦(のきまるがわら)が出土しました。古代寺院は、川の北に位置するのが通例とされていたので、現在の讃良寺共同墓地付近と考えられます。鎌倉期までは存続したとの文献が見いだされるのですが、それ以降は明白ではありません。大正寺の聖観音も讃良寺の本尊だったとの説もあります。
せ
千古の 歴史を秘める 讃良川
もう1基の立て札の句にある讃良川の読み方は、「さらら・ささら・さんら」とあり、今は「さら川」とされています。讃良川(さらがわ)付近から縄文時代後期の高坏(たかつき)、深鉢などが出土しました。
余談ですが、四條畷中学校の校歌には、「讃良川(ささら)川水 細くとも をやまぬ流れ一筋に」とあり、卒業生にとっては「ささらかわみず」に親しみを覚えます。
砂地区に入ります 忍ヶ丘駅から約40分
蓮華山妙法寺
元和3年(1617)4月に創建。創建以前はキリシタンの寺院ということで当寺の耶蘇会士通信文の中に伝えられています。
す
砂、岡山の キリシタン 異国の文にのる
岡山地区から砂地区へと歩いてきます。砂地区には、光円寺と妙法寺の2つのお寺がありますが、砂の旧村の南側にある妙法寺、その門の左横にこの立て札があります。時は、織田豊臣と政権が台頭する少し前、砂・岡山地区には多くのキリシタンがいました。飯盛山の城主である三好長慶は彼らの信仰を理解し、畿内での布教活動などを許していたからです。ところが、豊臣政権以降には弾圧されてしまったのです。この地域付近にキリシタンの処刑場があったと言われ、彼らの霊を弔うために、昔8月12日(お盆の前日)に一夜限りの夜店が並び賑わっていました。
忍ヶ丘駅から岡部小学校まで徒歩で約1時間コース
岡部小学校
お
岡部川 車いきかう 八丁堤
一つは岡部川の句です。この土提道は八丁堤と呼ばれていました。昔の単位で一丁が約109mですからおよそ872mの真っすぐな道が砂地区から寝屋川堀溝まで続く主要街道でありました。
な
なぞ秘める 銅鐸出土の 四條畷
もうひとつは、四條畷市内で出土した 銅鐸の句です。農耕の始まった2000年前頃の弥生時代に、「楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国」と中国史書に語られるように原始国家が成立しました。支配者が祭祀用に用いると伝えられる銅鐸が、四條畷出土として、銅鐸研究に記載されていますが、市内のいずれかは定かではありません。レプリカは、四條畷市歴史民俗資料館にあります。
忍ヶ丘駅からここまで約2.6キロメートル
郷土史カルタひとふでウォーク 紹介
ひとふでウォークコース紹介
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